阿部和夫石巻市芸術文化振興財団理事長講演「石巻開港と米谷喜右衛門」~東京みやぎ石巻圏人会第4回交流会~
東京みやぎ石巻圏人会主催の第4回交流会が2017年9月16日(土)、東京・銀座で開催され、阿部和夫石巻市芸術文化振興財団理事長が「石巻開港と米谷喜右衛門」と題して講演を行いました。以下に要旨を紹介します。
石巻の開港について高橋富雄氏は、遣欧使節支倉常長の交渉による貿易開始に備えたものであったが、交渉失敗により規模が縮小したとする説を、「石巻地方研究 創刊号」に発表した。
それに対して渡辺信夫氏は、同誌第2号で川口の湊がもつ欠点(川口に土砂が堆積し、大型船が入れず)を考慮すると、遣欧使節や国際貿易と直結して考えるのは無理があるとした。そして「米谷家文書」に記された米谷喜右衛門の業績をとりあげている。

その内容は葛西家浪人だった米谷喜右衛門が、仙台藩士の鈴木和泉(財政担当)に献策をしている。このことにより、元和8年(1622年)石巻に米蔵が建てられ、そこには内陸部の米、大豆を保管しておき、江戸・仙台城下に送り出した。
そのことにより米谷喜右衛門は仙台藩士に採りたてられた。その結果、石巻は仙台藩米輸送の拠点となり、元禄期には44棟(石巻村15、住吉12、湊村17)の米蔵があり、13万5千俵の米の収納が可能であった。
江戸への米輸送は、仙台藩だけでなく南部藩も領内の米を北上川の舟運で石巻に運び、其所から江戸に運んだ。この様にして石巻は、諸国の船が集まる東日本随一の湊となった。
こう考えると、石巻発展の功績者は、川村孫兵衛だけでなく米谷喜右衛門も 含めるべきではないかと思う。
こうして発展した石巻の街の様子は、「奥州石巻湊旧町名・史跡地図」(石巻 千石船の会が刊行)をみると、現在の建物・道路と対比しながら、往時の状況を 知ることができる。

その石巻には、米等を積む御穀船の船主が沢山存在した。
その中の一つ「武山屋」では、5艘の穀船(観慶丸、亦宣丸、観悦丸、観幸丸、正観丸)を所有し、手広く商いをしていた。その範囲は、仙台領内は勿論、江戸・浦賀、その航路途上の平潟・銚子・上総興津・安房・内浦、北方では宮古・深浦・箱館、日本海側では新潟まで及んでいた。
尚、観慶丸の船頭幸助は独立して「須田屋幸助」を名乗り活躍をし、その末裔は船名を商店名として現在まで継承している。
武山屋以外の船主の取引きも考慮に入れれば、石巻湊を拠点として、大規模な経済活動が行われていたことが推測できる。
この様に発展した石巻湊だったから、松尾芭蕉も立ち寄る気になったのかもしれない。元禄2年(1689年)5月10日、松島から平泉に行く途中、石巻に立ち寄り、その印象を「奥の細道」に記述している。
「数百の廻船入り江に集い、人家地を争いて竃の煙立続けたり」と湊の街の様子を描いているが、「宿かす人なし」の記述もある。
これはフィクションで、実際は新田町の「四兵へ」の所に宿をとっている。その根拠となるには同行した門人曾良の「曾良随行日記」である。それによれば、根古村の「こんの源太左衛門」により、湯を飲ませてくれる家まで連れていってもらい、石巻の宿まで紹介して貰っている。
「奥の細道」は虚構が入った紀行文であることを理解し、機会あるごとに石巻の名誉回復に努めたい。
講師プロフィール
阿部 和夫(あべ かずお)
石巻芸術文化振興財団理事長・元石巻市教育長

昭和13年石巻生まれ。住吉中学校、石巻高校、東北大(教育学部)を経て教員となり、石巻管内の小中学校に勤務。その間、教育行政職を8年間務めている。
平成11年3月、石巻小学校校長を定年退職し、同年4月より平成20年11月まで石巻教育委員会教育長を務める。現在は、石巻芸術文化振興財団理事長。
石巻の地域における「戊辰戦争」と「飢饉」を歴史研究のテーマとしている。
また、震災後、門脇小学校をテーマにしたドキュメンタリー映画の制作委員会の代表をつとめている。